こころを 大人に そだてていく * しあわせになることを 自分に ゆるす

インナーチャイルドセラピストSAKIの しあわせになる こころ育て

〈怒り〉を悪者にしないで仲良くなると、クリアな自分になる

先日、活動家の友人が、

 

「これまで、私は

世界の残酷さ、

悲しさ、

戦争や、むごさを、

ひどいと思って、活動してきたけれど、

もしかしたら、

その<怒り>では伝わらないし、

人とも、つながれないんじゃないかって、

思えてきた」

 

と、私に話してくれました。

 

たくさんの人に、長く、

大切なことを伝えてくれている友人の

素晴らしい発見に、私はとっても嬉しくなりました。

 

私も、同感だったから。

 

 

 

 

正しい、は戦いを生む。

 

正しい、の後ろには、怒りが潜んでいる。

 

 

 

 

誰もが、正しいと思うことは、

疑ってかかるくらいが、ちょうどいい。

 

正しいは、

人間の数だけ、正しいがある、

というのが、今のところの私の検証結果。

 

そして、

それさえも

「正しいかどうかは、

あなたが自分で感じてみて」

と私は思う。

それが、ニュートラルでいるには、ちょうどいい感じがする。

 

 

 

 

話が<正しい>に振れてしまったけれど

(それはまた書くとして)

 

 

 

 

書きたかったのは、

<怒り>の話だ。

 

 

 

 

今、私たちは、

<怒り>に、アレルギーがある。

 

「怒りは良くないもの」という判断がある。

 

それをできれば封じ込めて、

 

スマートに

理性的に

理論的に

楽しさや喜びや、明るさと

共に居たいと思っているようだ。

 

 

<泣くこと>は

ずいぶん、昔よりは市民権を得てきたように思うけれど、

(泣くための映画や本が絶賛されるような時代になってきました)

 

<怒り>は

まだまだ「見たくないもの」カテゴリーの中にある。

だから、泣きでも「怒り泣き」となると、

手に負えない感じになる。

 

 

 

喜怒哀楽の

<喜><楽>はポジティブ、

<怒><哀>はネガティブ、

だというのは、

私たちの、ただの判断だ。

 

この4つは、

どれもただの感情表現であり、

感情排出の方法で、プラスもマイナスもないのだ。

 

そして、それらは

それぞれ、感じ切ると、流れていく。

通り過ぎていく。

その後、残るのはクリアな自分だ。

 

 

 

 

 

 

もし、あなたが、

何かに怒りを感じるなら、

怒りはそのものにではなく、あなたの中にある。

 

 

現象は

プラスもマイナスもなく、私たちの前に現れる。

 

私たちは自分の反応を

つい、「目の前のものが原因だ」

と勘違いしてしまうけれど、

 

反応させるものに原因があるわけではなく、

<反応する私>が、ここにいる

だけなのだ。

だから、

人によって、反応が違うというわけ。

 

 

現象は鏡だと思うと、イメージしやすいかも。

光を持つ自分が映って、初めて私たちは自分の光を知る。

 

その光が、

喜びの光であろうと、

怒りの光であろうと、

そこに質の差はあれど、価値の差はない。

 

 

光があると気づいたら、

それを認め、

その光の思いを聞いてやり、

表現させてやることで、

通り過ぎていくようなものだ。

 

 

ただ、

怒りとなると、

 

私たちは、そこに怒りがあると認めて、

怒りを出すことが、どうもできない。

 

それは、あなたのせいではなく、

社会に

「怒りに任せることは良くないことだ」

とい判断があるからに過ぎないのだけれど。

 

 

しかし、その結果、

怒りの光は通り過ぎて行けず、

あなたのお腹の中で、絶えずくすぶり、

光を強めているのではないかと思う。

(結果的には、チラッと鏡に映りやすくなり、怒りを覚える回数が増える。

もしくは大爆発して、何かを攻撃してしまう。後味は悪い)

 

 

 

 

友人のように、

怒りを運動に変えてもいいけれど、

もし、

怒りを感じている自分とつながることができて

何かに向けず、

安全に、排出していけば

彼女の想いはもっと、たくさんの人に伝わりやすくなる。

 

 

 

たとえば、あなたが、

怒りをためこんでいるなら、

抑えずに、ぜひ、自分のためにも、社会のためにも、

子どものためにも、世界のためにも

吐き出すという工夫していって欲しい。

 

 

 

 

誰かにぶつけなくても、

怒りは吐き出せる。

 

 

自分が怒りを持っていることを知る。

「怒りがあっても、いいんだよ」と認めてやる。

時間がある時に、出してみる(怒りの内容を聞いてやる)方法を試すだけでいい。

 

じっくり、気の済むまで<怒り>の言い分を聞きさえすれば

相手を攻撃せずに済むことも

ため込んで、爆発せずに済むことも、

抑え込んで、自分を攻撃せずに済むことも

知って欲しい。

 

 

実際に

私が自分の中の<怒り>に対面したときの対処法はこちら。

 

  • 水と戦う

一人でお風呂の湯船につかっている時に

お風呂のお湯と戦ってみる。

相手は殴っても振り払っても

あなたにかかってきます。

思い存分戦ってみてください。

 

  •  新聞紙で戦う
新聞紙を丸めた棒で
座布団や、壊れないものに殴りかかってみる。
 
思いの丈を声に出して、叩くとさらに効果的❗
 
 
  • 枕と戦う
あるいは、座布団でも可。
殴る蹴る、放り投げる。
何でもし放題。
 
うちの息子は枕カバーが破れるほど振り回したので、
手加減を知らないバカ息子をお持ちの方が、彼らにこの方法をさせるときは、
捨ててもいいものにする方がオススメ。
 
 
  • 書きなぐる
柔らかい鉛筆と、紙を用意し
本当は言いたいことから、
普段口に出せないようなこと(いわばfu○k you的なこと)まで、
タブーを取っ払い、
心が空になるまで、
腕が痛くなっても書きなぐる。
NO遠慮!
最後は捨ててしまうので(燃やしても破っても丸めてもOK)
誰にも見せることはありませんから
あなたの人格も品性も落ちません。
 
腕の脱力感的にも、紙に書くのがオススメだけれど、
慣れてきたら、パソコンで思いの丈を書き尽くす手もあります。
外出先なら、メモとかに、
言いたいことを書いちゃうと、ずいぶん怒りが落ち着きますよ。
 
 
  • 感情日記を使ってみる
ホメオパシージャパンで出版されている『感情日記』を買って、やってみる。
これは、かなり有効です。
一人セッションと同じです。
 
 
  • 感情解放のセッションを試す
人に付き合ってもらって、
感情を感じ、安全に出す体験をしていく。
 
あなたの怒りは安全に処理できるし、
哀しみをしっかり感じても、ちゃんと戻ってこられる。
 
セッションでは、
それが、人間の温かさによって、
味わい、
こんな風にしても良かったんだ、
と、体験できます。
 

 人を信じ、

自分を信じる基礎工事にもなります。

自分育てのセッションで受け付けています。

 

 

 

 

 

 

あなたの怒りは

ただの、感情。

 

 

感じきり、吐き出すことで、

通りすぎていく。

 

 

怒りの感情を乗せて伝えても

相手は無意識レベルで受け取りを拒否する。

(それが、たとえ隠していてもね)

 

感情を流した後、

要望だけを伝えてみると、

今までの、怒りと共に伝えていた方法とは

全然違うことに、あなた自身驚くはず。

 

それはもう、

まったく異質なものになっている。

 

 

 

 

そして、

私たちは

責められないと分かったことには

耳をかなり傾けられるのです。

 

怒りを乗せずに、

伝えていくことができれば、

きっと、世界は変わります。

短い人生を、好きに生きる

ターシャ・テューダーの映像を見ていると、

こんな風に生きてもいいのか、

こんな風に生きてみたい

と、思う。

 

絵本も、庭も、素晴らしく素敵だと思うし、

彼女の庭づくりの本も、何冊か読んだけれど、

 

映像を見て、

彼女がどんな風に生きていたのか

その生き方を

これまで彼女に感じたことのない強い共感を覚える。

 

 

それは、

彼女が満たされる世界にコミットし、

人生を自分の愛するもので満たすことにためらわないからだろうと思う。

そして、

たぶん、彼女は自分の人生のプランをまっとうしたから。

 

 

好きなように生きてもいいと言われても、

私たちは

好きなように生きられない理由を

100でも1000でも思いつく。

 

自分で選んできたこの人生で、

外す体験がしたくて、自分でチョイスした足枷を

私たちは「困難だ」「無理だ」と言って、

外せない理由を探している。

 

 

 

 

そんなことやってたら、日が暮れちゃうよ!

 

また、

人生を終えて、魂に戻った時に

「しまった!!」って言うの?

 

 

 

 

 

100も1000も見つかる理由の中で

私の理由のほとんどは

<他者から意見されることの恐れ>だった。

 

他者から向けられる矢への恐れだった。

 

 

 

 

自分に矢を向けていたのは、

私だったのだけれどね。

 

制限し、柵を設け

外に出てはいけないと言っていたのは、

私だった。

 

 

しかも

詳しく見ていくと、

制限するような高圧的な見た目に反して、

その思いは、「(私を)生き延びさせてやろう」とする愛からだったのだ。

 

 

 

 

 

そんな風に

自分のこころのしくみや思いの重なりを見ていくと、

 

昔は役立っていた、そうした思いが、

今は自分の制限になってしまっている全体像が見えてきて、

 

ようやく初めて、

 

「もう、いいのだ」

 

と、気づくことがあるのです。

 

自分に向けていた、矢の基盤となっている想いは

砂になるように昇華して、

同時に矢も、なくなってしまう。

 

 

 

気が付いたら、

自分を囲っていたと思っていた柵はなくて、

恐る恐る、新しい地を踏んでいく…

 

 

 

みんながそんな風にして

進んでいけたら、

人のせいにせず、

自分の統合を進められる。

 

 

あなたは、あなたの好きに生きていい。

 

誰に何と言われようと、

好きなまま

激しく幸せを、探求していいのです。

 

 

そういう私も、

1つ1つ

自分で定めておいていた柵を

撤去しながら、

自由になるプロセスを進んでいるところ。

 

誰かに甘える時間をつくる。おすすめの甘える相手は…

子どもに甘えられるのが苦手な親は、意外に多い気がします。

普段は苦手ではなくても、時と場合によって、

「くっつかれても無理!!」

「ちょっと今は甘えられたくない!」

って気分になることだったら、あなたにもあるかもしれません。

 

そんな時、

考えてみて欲しいのは、

 

「ちょっと待って。私、最近、誰かに甘えられてるかな?」

 

ということ。

 

 

 

 

あなたは、甘える時間を持てていますか?

 

それは、誰との時間ですか?

 

 

 

大人になって、甘えるなんてと思うかもしれないけれど、

「甘える」をしようとすると、実は相当ハードルが高い人もいます。

 

 

 

「甘える」は、自分の弱みを見せること。

 

イメージとしては、

犬が、お腹(弱い部分)を見せて、

「ねえねえ、私って可愛いよね? 撫でてくれる?

私を可愛がって! 慰めて!」

と、すり寄って行くような感じ。

 

 

 

あなたには、

できますか?

 

 

 「自分の価値を落とすような気がする」

「プライドが邪魔してできない」

「そんなに卑屈になるくらいなら、一人でなんとかする」

「相手に断られたらショックだからしない」

 

という気分になるあなたは

いつも、格好良く、素敵な自分でいようとするのかも。

弱い部分を見せないようにしているのかも。

相手からは、攻撃されるかもしれないと思っているかも。

そして、

無防備な自分、弱い自分を

愛してもらえるのかを、無意識にひどく心配しているのではないですか?

 

 

 

 

もし、あなたが

誰かに「甘える」ができているとしたら、

 

あなたは

 

自分の弱い部分があることを認められています。

 

その人が、自分の格好悪い部分を知っても嫌いにならないと知っています。

 

その弱みにつけこんで攻撃されないことも知っています。

 

ダメダメの部分を持つ自分を、それでも<好き>と言ってくれる、

と信じられているのです。

 

 

 

それって、すごいことなのです。

 

 

 

だから、

もし、あなたが、子どもから、甘えられているとしたら、

 

あなたは、絶対的な信頼を子どもとの間につくれているってこと。

 

 

あなたが、「この人になら、甘えて泣けるな」とイメージできる人がいたら、

あなたには、信頼をおける人がいるということです。

 

 

 

 

大人になったからといって、

私たちの中身は完全に大人というわけではありません。

 

なんでも頑張っている私たち。

一人でやり遂げようとする私たち。

 

たまには、

力を抜いて、

誰かの庇護の下で、身体をゆるめ、

頑張りをねぎらってもらう時間が、

 

どんな人にも必要です。

 

 

 

 

あなたをねぎらってくれる人は誰ですか?

 

大切な友人?

 

パートナー?

 

 

 

 

 

甘え先のおすすめは、こんな方々…

 

 

  • パートナー

 

パートナーは甘える存在として

肉体的にも、精神的にも、一番頼れる相手でもあるし、

頼ることで、二人のパートナーシップも深まります。

(どんな風に甘えるのがおすすめなのかは、また別に書きます)

お互いに、疲れ切った時、弱った時は、

甘え、甘えられる関係をつくる努力を普段から心がけておくと

困ったときは味方でいてもらえるという信頼が育ちます。

 

甘えてもらえるのは、

信頼されている証でもあるので、

基本的に、頼られて嬉しい性質を持っている〈男性〉(もしくは女性の中の男性性)は喜びます。

 

素直に喜べない人はもしかしたら、その人の課題で、なんらかの傷を持っている可能性もありますから、

それが「私に価値がないからだ」という思いに駆られても、それは真実ではないことなのだと知っておきましょう。

 

 

  • 子ども

 

日常では、

子どもに甘える、というのも、おすすめです。

期間限定の数時間(というか数分)、

大人が大人の役割をお休みして、

周りにいる信頼のできる人間(この場合子ども)に助けを求めることは、

子どもにとって、とても嬉しい時間となります。

(これも、どんな風に甘えるのかは別に書きますね)

子どもたちは、大好きな親が、自分に弱みを見せて甘えてくれることで、

<自分が信頼されていること>

<親も弱い部分を持った人間であること>

<自分も弱い部分を持っていていいということ>

を、学ぶことができます。

 

ただし、注意があります。

それは、あくまでも、【期間限定】にすること。

親子逆転の親が子どもに甘えっぱなしの関係は、

子どもにとって負担となり、

子どもの中に<満たされない想い>をつくってしまうことになるので、

あくまで、これは臨時的な関係にしなければなりません。

 

 

  • 信頼のできる友人

 

パートナーより、友人の方が、ずっとずっと頼りやすい…というという人も多くいるのではないでしょうか。

けれど、本当に甘えられる友人となると、かなり限られるはずです。

あなたの愚痴を聞いても内密にしてくれて、

あなたが思わず感情を出してしまっても、そっとそばにいてくれて

あなた自身の内なる力を信じ、甘える時間を提供してくれる友人というのは

めったにお目にかかれません。

もし、そうした相手がいるというなら、

友人を超えた仲間のような存在かもしれませんね。

 

けれど、人生においては、そうした、本当に信頼のおける友人(仲間)をもつことが

素晴らしい助けになるので、

お互いに助け合える人間関係をつくる努力(そうした関係をイメージして願うことや、ご縁を大事にしたり、人との関わりを面倒くさがらないことなど)は日頃からしておくのがいいと思います。

そんな出会いは、絶対にやってきます。

 

 

  • かみさま(または、かみさまのようなもの)

 

かみさまに甘えることができる人は、かなりの上級者です。

かみさまへの深い信頼が必要となるから。

その、大いなるものの流れが自分にとって必要なのだと理解が必要となりますし、

そこに向かって恨みがある状態では難しいから。

 

また、

「甘える」ときには、物理的に、<体温>があると、

肉体レベルのゆるみから精神レベルの癒しにつながりやすいのだけれど、

肉体の無いかみさま(のようなもの)へ甘えるとなると、

心の澱(おり)を宇宙に向かって委ね預けるような作業になってきます。

自分の<受信アンテナ>がうまくはたらいていないと、

なかなか孤独な会話になりがちなのはご想像の通りです。

 

ただ、これがある程度できるようになると、

日々の課題を一人(と、かみさま)で、乗り越えることが可能になってきますの

自分の時間さえ見つけられれば、

いつでも甘えた後の至福感が手に入るというわけです。

素敵です。

 

私はドカンと大きな課題がやってくると、

やっぱり人の優しさが大きな助けになるので、

自分で取り組める限界を感じると、

一人で乗り越えることを諦めて、

助けを求めます。

 

助けを求めるって、甘えてないとできなくて、

やっぱり「この人ならきっと甘えさせてくれる」と確信できる人に

お願いしたりしていますね、よく考えると。

 

 

 

何歳になっても、

エネルギーが枯渇するタイミングで甘えることは

私たちの心と身体を充電させ

自分を取り戻すのを応援してくれます。

 

 

 

甘える

 

 

委ねてみること

でもあります。

 

 

 

もう、

一人で進まなくてもいい。

助けを得ながらなら、

いつの間にかまた、

進む勇気が湧いている自分に出会えます。

あなたは、優しい温度の視線で、世界を眺め続けることができるか

視線には温度がある…

 

あたたかいまなざし、

冷淡な視線、

熱い視線、

凍り付くようなまなざし…

 

それを知ったのは、ある本だったけれど、

その時、それを実感して、

今は本当にそうだと感じている。

 

そして、

私たちが、どんな視線を世界に向けるのかが、

この世界の未来につながっているのを感じるようになった。

 

 

世界には、

たくさんの、目をそむけたくなるものがあって、

まがまがしいもの

むごたらしいこと

残酷なこと

思いやりや愛が感じられないことも

些細なことから、おおきなことまで

私たちは、それを

人を通し、メディアを通し、自然を通して

感じ、知り、傷つき、さらに反応してしまうけれど、

 

どんな森羅万象にも

一片の、

あたたかいまなざしで見てあげられる隙間は、

必ずある。

 

 

 

反応して起こり、呼び覚まされる自分の気持ちには

自分責任を取って、対処する。

 

(日々のデトックスや、要所要所での心のクリーニングで)

 

 

反応した気持ちを、反応を起こさせたものの責任にしないことが、大切。

 

(例えば、映画を見て泣いたり怖がったりしても、

誰もスクリーンに向かって責めないでしょ?

原因はスクリーンにはない。 反応する私たちの心があるだけ)

 

 

 

 

こころがクリアになっても、

もし、まだ未消化でも

 

原因を人のせいにしないで、

自分の気持ちや思いを、(一時的に)脇に置いておくことができれば、

 

私たちは、判断を手放して、

本当に起こっていることを、ただ、眺め、見守り、

優しい温度の視線で、

そこと、つながることができる。

 

 

 

 

私もまだ、

つながりを持続することにチャレンジしている身だけれど

(なにしろ、持久力が苦手なので。

そして、本当に、持続することは難しいのです!)

そんな風に

世界を攻撃せず、見守ることができれば、

世界は変わる。

 

 

あなたにも、あるでしょう。

自分なら、怒る場面で、

優しい声をかけられた時。

失敗してしまったのに、

まだ信頼を持ち続けてくれる優しさに触れた時。

 

 

優しいまなざしや、その温度に触れた時、

私たちは、再生する光をもらい、

また違う誰かに、その温度を伝えられる気がします。

 

 

 

でもね、

「私の周りには、そんな人はいない!」

「そんなこと綺麗ごとだ」

って言ってちゃ、

いつまでたっても始まらないんだなあ。

 

 

 

始めるのは、

あなたから。

 

 

 

こうして、文章を読む運命にあった、

誰でもないあなたから、

優しい温度の視線を、世界に振りまいてください。